ラマダーン明け

今回のラマダンを一緒に初体験したヒヤシンス。さんとのコメントのやりとりの返時、コメントとしては長くなりすぎたのでここに載せます。

ヒヤシンスの喫茶店
>えっと、えーっと、kawauso999さんのラマダンの旅〜私も聞きたいんだけどなあ〜。ムスリムのお友だちと暮らしたことや、kawauso999さんが感じた一部始終に関心ありますよお。今日は、打ち上げ〜ですし、ね。<




今回のラマダンは、うちにステイした子がムスリムラマダン入りしたのがきっかけでした。
でもラマダン体験への興味はもうずっと何年も前から抱いていたもので、今回のは本当に単にちょとしたきっかけ。
でも彼がいてくれたおかげで、独りでするのとは全然違う、意味深い体験になりました。
連帯感、かな。一日の断食を終えて最初の食事を摂るときに、おめでとーと食べる時に感じる共感は彼への好意を倍化させました。
イスラム同士の方々はこの感情がもっともっと強いのだなと感じました。
ムスリム達はイスラム同胞という言葉を使うようですが、この「同胞」という感じかたの片鱗を体感できたのは収穫でした。
僕は現代日本文化・習慣を無関心にとりいれることを若い頃にやめたこともあって、周囲から変な奴と言われ続けてきて、僕の方も日本人達への同胞感というものを抱けないでいました。


彼とは夜遅くまでいろいろなことを語り合いました。
ただ彼はあまり敬虔なムスリムとは言えず、イスラームへの愛着も、僕のかつて知り合った他のムスリム達よりずっと低いようでしたから、会話の内容が深くイスラームに及ぶことはすくなかった。
発祥の地から離れるほど、そして都市であるほどに、敬虔さは薄くなる傾向があるようです。
でも彼なりに抱えている宗教観、若い頃にキリスト教会に通った話など、当たり前のことですが、ムスリムは単にムスリムとしているのではなく、一人一人が生まれ育つ中で様々な経験を通してその人なりの信仰を育てていくのだなと、改めて考えさせられました。
シンガポールの中国人社会にインド・マレーシアの混血として生まれ、母の国マレー文化への憧れ、イスラム文化離れ政策を行った某有名大物政治家とまるまま同じ名前への不信、親の教育方針で通った中華系学校と中国系の友人達、マレー系幼馴染達と中華系友人の社会的地位の格差、日本への愛着などなど、今回の僕の旅はラマダン体験というよりは彼との共同生活という意味合いがとても濃かった。
そんな訳で、ラマダンについて書こうと思っても、ついつい彼との思い出に浸ってしまい筆がすすみません。


会話の中で僕は、「君がそうと決めてムスリムでいる限りは悩みが少なくある意味簡単なのだろうね」と彼に伝えました。
誤解を招きやすい表現ですがつまり、信じることに決めたからには教えの通りに実行すれば良いわけで、どうしたらいいだろう、どっちが正しいだろうかと迷うことが極端に少ないのでは?ということです。
例えば僕の場合、菜食でいこう、とは決めても、どこからどこまでが菜食かは自分で決めなければならない。
牛乳は?蜂蜜は?野菜だって生き物じゃないか・・・と葛藤は残ります。これは正しいとか間違いだとかいう明確な基準が無いからです。どこかに自分で線を引かなくてはいけない。
(そんなこと別にきめなくてもいいじゃないか、と主張する多くの日本人は、意識していないだけで実はしっかりと彼らなりの線をひいていたりします。人肉や犬肉・猫肉を好んで食べる日本人がほとんどいないのはそういうことだと思います。)
イスラムの場合は食べ物はもちろんのこと、その他生活についても事細かにして良いこと、いけないこと等が決められてるので、悩みどころは、あれは良いか悪いかではなくて、この良いことを実行するかどうか、なのかなだろうなと考えました。
彼は少し考え込んで、同意しました。
彼なりの信仰の持ち方、多文化との接点、彼なりのバランス、彼の妻との信仰の度合いの違い、本当はやはり悩みどころ満載であるのは互いにわかったうえでの会話だったので、ストリクトベジタリアンに較べれば、という意味での、僕に敬意を払ってくれて、の彼の同意でした。




ラマダン体験するにあたり、僕のことを兄弟といってくれるサウジアラビア人の友人にメールで知らせました。
その返信の冒頭に
>Alhmdo Lellah, I am fine thank you, I am so happy to see your email and "Ramadan Kariim". Ramadan Kariim to all of us.<
とありました。ラマダンカリームはto youではなくto usでもなくto all of us なんだなあと納得、ちょっと感動。
僕の場合この辺でもイスラムへの憧れが生まれちゃうのかもしれない。同胞か、いいな。
仏教徒同胞なんて聞いたことないなあ。



ラマダン中に偶然、友人バングラデシュ人夫婦に会いました。とても賢く、明るく、友好的な素晴らしい夫婦です。
誉めてもらいたくて、僕もラマダンの断食やってるよー(日本語)というと窘められてしまいました。
まず僕が温泉帰りだったこと。ムスリムは他人に全裸を見せてはいけないので、特にラマダン中は公共の風呂に入ってはいけない。
それから、ラマダンはただ食べないということではなく、毎日のお祈りと貧しい人への施しもしなければならないこと。
なんだか浮かれていた自分が少し恥ずかしくなりました。
まあ、本格的に改宗したのでなく、単に体験としてのラマダンだったので反省はしていないけれど、日中1ヶ月食べないくらいでイスラムの仲間入りってわけにはいかないな、と。

ムスリムであることはもっと厳しいことなのでしょう(特に、イスラム文化への理解が乏しいここ日本に住み仕事・生活をするのはさらに制約が多く難しいはず)。
そしてその厳しさを共に乗り越える仲間・同行者として、彼らの連帯感があるのな、と今までも頭で知ってはいたことを改めて、触りだけでも体験・体感できたことが今回の学びでした。

そうそう、ラマダンが明けて明るいうちに飲み食いする時、「ああ食べてもいいんだなあ、食べたい時に食べられるってありがたいなあ」としみじみ思います。
食べられることへの感謝、菜食者として強く意識しっていたつもりだったけれど、それは頭で考えてそうだっただけと気づきました。
今回の、夜には食べてよいという簡単な条件下でさえ改めて感じるのだから、本当の餓えをしらない僕が本当に心から食べ物に感謝するというのは難しいことと知った。
感謝することを体感させるだけではなく、餓えた人々への喜捨さえも義務化しているイスラムという宗教は、なかなかどうして素敵なことを教えてくれているんだなあ。
イスラムの素晴らしさを熱心に教えてくれたマレーシアの友人達、彼らの心が、我が家にステイしたムスリム達の優しい心を経由して10年も経つ今になってやっと心の中の方にまで染みてきました。


今回は仕事が忙しくて時間がとれなかったけれど、次回(来年)は礼拝所を訪問して断食明けを祝う歓びを体験してみたい。



追記 17/11/05
ラマダン月中に、イギリスに住んでいて日本に旅行に来たインドネシアムスリマと会話*1しました。
彼女の職場の同僚のオーストラリア人も一緒にイスラム断食していると聞き僕は即座に
「どうして?どうして彼はそれをする?」
と答えていました。
一緒にサウム*2を体験する共感より先に、なんだってそんなことするんだろう?って素で心に浮かんだ・・・。
なんだってそんなことするんだろう、と僕も周囲から思われていたことだろう。
「わからない、ただの好奇心じゃない?」と彼女は答えた。
ああ、僕と同じだ。ただの好奇心だ。そうか、僕のはただの好奇心か、と実感するできごとでした。

追記 17/12/14
仏教徒同胞なんて聞いたことないなあ。」と書いたけれど、チベットでやたら優しくされたりしたのは、日本人が仏教徒だと彼らが認識しているからだろうな、と当時感じていたのを思い出した。チベット人達の信仰の姿勢、祈る姿にも美しさを感じたものです。




ラマダンリンクhttp://d.hatena.ne.jp/kawauso999/20070913


*1:日本語不可

*2:イスラムの断食をアラビア語でサウム。日本語の「断食」でイメージする断食とイスラムの断食=サウムは趣旨も内容も違うので、会話の中で不用意に「断食」という単語を用いると誤解が大きい