自分で殺しているわけではないから、買って食べてもいい。

浄土系のように、「魚を食べる者が往生するなら鵜が往生するし、魚を食べないものが往生するなら猿が往生する、だから魚を食う食わないは往生に関係ない。」という宗教では、念仏さえ唱えていれば肉を食っても魚をくっても問題ない、と主張する。このような宗派は本当に仏教なのかと首を捻ってしまう。
そんなことを言う親鸞法然は論外で、殺生戒を守っている本物の仏教ではきっと肉を食べないのだろう、と思っていた時期があった。

実際のところ、スリランカ・タイ・ビルマなどの上座部仏教の修行者が、肉を食べるのか食べないのかは、今も知らない。大乗仏教であるチベット仏教では肉を食べるのは知っている。


殺生を禁止するというのは仏教の譲れない一線であろうけれど、殺生をしない立場を守りつつも豚や牛の料理に舌鼓を打つ僧侶が多いのはどうしてだろう。
日本テーラワーダ仏教協会で、こんな説明をみつけた。

HOME→「ブッダ智慧で答えます」(Q&A)→【36】 不殺生戒/不妄語戒/不飲酒戒

Q: 漁師、屠殺業者が捕獲し、屠殺し、そして生産したさまざまな食品を口にしている私たちは「不殺生戒」を犯していないと言いきることができるのでしょうか。

A:関係があることは確かです。でも、殺生かというのは疑問です。殺生罪には、自分で殺す、あるいは命令して殺させる、という二つのいずれかの条件が必要です。この場合はどちらにも入りません。でも、世の中には考えすぎの人々がいます。人生における単純な問題でも解決できない割に、ものごとをどこまででも考えてしまうのです。彼らは、観念的な答えを見つけるのですが、実践性には欠けているのです。

 関係があるだけで、罪になる場合もならない場合もあります。子供が人を殺したとします。もしかすると親のしつけがよくなかったかもしれません。でも、罪を問われるのは、犯人である子供本人であって親ではありません。宗教的に「人を殺した人は地獄に落ちます」という場合でも、地獄に落ちるのは本人であって親ではありません。会社のためを思って一人の社員が間違いを犯し、告訴されることになった場合でも、社員全員を告訴はしません。犯人だけです。考えてみれば、皆、関係あるのですが。

 ですから、この質問は、考えすぎて至った非合理的な結論だと思います。さらに考えてみましょう。この世の中で銀行強盗が起こるでしょう。それは社会全般の経済状況が公平でなかったせいである人に収入が入らないようになったからかもしれません。あるいは社会全般に、豪華に贅沢することを賞賛する風潮が蔓延していた結果で、彼には、銀行強盗しか大金を手に入れる方法がなかったのかもしれません。どちらにしても、社会全般に関係があるのです。戦争も、原子爆弾も、テロや破壊活動も、社会全般に関係があるのです。つまり、どこかで誰かが誰かを殺したならば、ここにいる私も犯罪者になるということです.。このような結論は、あまりにも屁理屈であり、考えすぎであることを理解できると思います。世界がすべて平和で、幸せであるようにと皆努力するべきですが、それはそれほど早い結果が得られるものでもありません。そこまで個人は待っていられません。人生は短いので、とりあえず、自分の一生で罪を犯さないように努力することは具体的で合理的です。

 殺生戒の意味は「君は、他を殺すな」ということです。それくらい、誰にでも、実践できると思います。「あの人が、殺生している」ということが、あなた自身が困るほど関係あるのなら、やめさせるようにしてほしいのです。関係ないなら言ってもきかないでしょう。世界全般をよい方向へ持っていきたければ、皆で努力するか、他に命令できる政府などの機関に言ってみるしか方法はないのです。

 なにかの問題について考える場合は、なんでもかんでも無差別に考えるのではなく、問題が起きた条件の中で考えるものです。どんな思考でも思考自体には、それほど価値あるものではないのです。単なる観念にすぎないのです。思考に価値があるのは、その思考が実践可能なときだけです。 


ベジタリアンは考えすぎで、人生の単純な問題も解決できず、実践性に欠ける人たちなのだろうか?
世間ではそう思われているだろう。また、中には、そういうベジタリアンも実際にいるだろう。まさにおまえがそうじゃないか、と言われれば、否定するだけの根拠も僕にはない。

テーラワーダ仏教の御言葉を否定する気持ちはないのだけれど、この説明に引用したたとえ話はおかしいと感じた。おかしい。
肉を買って食べることは、「命令して殺させる」こととほぼ同じだとベジタリアンは考えている。
肉を買って食べることは、殺人者の親であることに例えられない。
肉を買えば肉屋の在庫が減るのは明白で、店は在庫が減れば入荷しなければならない。肉を入荷するということはつまり、生きている動物を殺して肉屋まで運ばせるということだ。
毎日一定の在庫があれば、今後も売り上げが見込まれる量だけ入荷し続ける。
もしもだれも肉を食べなくなれば、肉屋は入荷を止めるだろうし、誰も動物を食べる目的で殺さなくなる。
だからもし上のQ&Aに倣って殺人者で例えるなら、肉を買って食べる人は、金を払って殺し屋を雇う殺人依頼者だ。
又は、子供が人を殺すたびにお小遣いをあげる親だ。子供はお小遣いのために、もっと人を殺す。


今肉屋にいて、目の前にある肉片だけを見れば、それはもう死んでいるのだから、それを食べても殺生にならない。しかしそう考えるのは実に近視眼的だ。
コンビニの冷蔵庫にならぶ飲料のペットボトルに例えると、少しはわかりやすいかもしれない。
一番手間にある一本を取ると、押し出されてまた次のボトルが一番手前に出てくる。2本取っても3本取っても、次から次に押し出されてくる。そこだけを見ればただボトルがあるようにしか見えない。しかし、何人もが買って帰れば、店は売れた分を仕入れる。


肉を食べながらも殺生はしていないと言う理屈に、「殺人者の親は関係あるけど責任はない」と説明されていてがっかりした。


もうちょっと書こう。
銀行強盗と社会全般の例えにも疑問を感じる。
この例えで銀行強盗とは、質問にあるように「漁師、屠殺業者」のことだろう。
「殺生したくないけれど肉を食べる人」が、「社会全般」に例えられている。
「社会全般」に例えるべきは「ベジタリアン」ではないだろうか。
「肉を買う人」は「銀行強盗」に利益享受しているのだから、「銀行強盗」が盗んだ貴金属を現金に換金する、或いは直接雇うか取引している、「マフィアかヤクザ」に例えられるだろう。


もしベジタリアンが、漁師、屠殺業者を殺人者や銀行強盗に例えて何かを書いたなら、きっと大きな批判を浴びるに違いない。でも、仏教者の口からこの例えを聞いても、日本人はそれほど大きな反感を抱かないだろう。
僧侶に対する無意識の尊敬と、ベジタリアンに対する嫌悪・軽蔑が今の日本にはある。





どうして肉を食べないの?と聞く人へ
ニワトリを買ってきた