「普通の人がイメージするベジタリアンとは?」を読んで勝手に感想


ブログ「just relax」内の日記{ベジタリアンってなんでいるの?}
http://blog.livedoor.jp/yosukemi/archives/50361037.html#comments



ブログ「Oregonian Way of Life」内の{「普通の人」がイメージするベジタリアンとは?}
http://blog.goo.ne.jp/shinnosuke_march/e/2b799b3597a16fa2babcab0da7fc4f20




最初に会った菜食者は10年前のマラッカで、彼女はスイス人だった。一緒に食事するときは必ずインド料理屋。「インド料理しか食べるものがない」と言っていたのに、僕の英語の稚拙さもあって、ベジタリアンという概念を理解できていなかったし、当時は、理解できていない、ということさえ理解できていませんでした。ある日おいしいトムヤムクンの屋台をみつけて彼女を誘うと、彼女は何回かベジタリアンだよ?と念を押していたのに僕は、よく理解もしないで、大丈夫大丈夫、と連れていき、彼女は英語の通じない屋台のおじさんに、肉抜きでと何回も念を押して注文し、そして食べている途中で、あっ、というような顔をして小さな肉を発見していた。今にして思うと本当に不思議なことだけれど、僕は悪かったな、なんてちっとも感じないでいたし、彼女もそのことについては何も言わなかった。今菜食者になって、菜食を理解して始めて彼女に悪いことをしたなということに気づくことができている。
愚かだった僕はきっと今もって愚かなままで、自分に理解できないことをする人を、無意識のうちに侮蔑している。意識してそれはいけない、と修正はするけれど、他者との違い、理解、共生などは意識していないときちんとできない。日本人とよりも日本人以外と気があって打ち解けやすいというのも、この辺に理由があるのだろうか。
典型的な日本人は、「同じで当たり前」という意識が根本にあるのだろう。違いはつまり「変」で、変な人、みんなと違う人という理解につながるのかな。変な人が違うことを実践する理由を疑問に思うことはあっても、では何故自分が違わないことを実践しているのか?という思索にはつながらないものなのだろう。


菜食している人にその理由はそれぞれでたくさんあるけれど、
「肉を食べるのが当たり前のこと」
現代の日本では、この呪縛の滑稽さに気づいた人が菜食をしている、と括って間違いはないかな、と思っています。


Oregonian Way of Life のshinnosuke_marchさんの言葉に納得。
>これぞ、わたしが『「ベジタリアン」という言葉の問題点』で指摘した、肉と野菜の二極分化ですね。「普通の人」はこんな風に考えるから、わたしはこのベジタリアンという言葉が好きではないんです。<
「菜食」でなくて、「非肉食」と説明すれば、「普通の人」である「肉食者達」も理解しやすいのかな。「野菜だって生きてるじゃないか」という攻撃的な質問も減るかもしれません。
http://blog.goo.ne.jp/shinnosuke_march/e/cded917093a891429734d8fdfc9392bc


菜食者です、というのと菜食していますでも違うし、やはり、ベジタリアンですって自己紹介するよりは、動物を食べないようにしているんですと話したい。
http://d.hatena.ne.jp/kawauso999/20051110