ケーキ10個で円になった

ケーキ8つでは2つほど足りなかったらしい」の続き。





購入時に円くしたい旨を伝えると、「ロウソクは要りますか?」と聞いてくれた。
なるほど、現代の日本人には「円いケーキ = 誕生日」と思考が直結するのだな、と思った。

僕は誕生日を祝う習慣も、誕生日にケーキを食べる習慣も自分のものとして取り入れていないから、それをする人びとを見るたびに奇妙だなあと感じる。
恐らく日本人がムスリムラマダンを見て、「変なことするな」と思うのと似たようなものだろう。

誕生日を祝う人が自らその文化を取り入れることを選択している自覚無しに、祝うことが当たり前のように錯覚し、祝わない人に疑問を感じたりする。
異なる文化との接触に慣れていないことが大きな要因だろうと思う。
普通に毎日食べているものが本当は普通ではなく、それを自ら選択しているのだというふうに考えない日本人が多い。
隣の家にネパール人が住んでいて交流があれば、彼らが毎日ダルバートを食べていて自分達がそうではないこと、カロリー過多のアメリカ人が住んでいれば、彼が毎日のようにでかいハンバーガーを食べるけれど自分がそうでないこと、隣にビルマ僧が住んでいれば、彼が肉も魚も酒も食べないのに日本の僧侶と自称する人びとが違うことに気づき、その違いの理由を考え始めるかもしれない。


結婚式のでかいケーキを見るときも、変なことをするものだ、といつも思う。
結婚には誠実な心が必用だと僕は信じる。
だから、見た目は派手で大きいけれど可食部分が少ないケーキは、結婚する人が心よりもウワベと外見を重視することを象徴しているように見えてしまう。初めての共同作業なんて言いつつも台にデコレートしただけのイミテーションのケーキだなんて・・・、と祝う気持ちは揺らがないものの、少し心配になったりもする。
イミテーションの大きなケーキを選ぶ夫婦と食べられるケーキを選ぶ夫婦を追跡調査したら、離婚率に差があるのではないかと思っている。
近頃は偽物ではなく食べられる(牛乳と卵入りなので僕は食べないけれど)ケーキに入刀する結婚式が増えて、意識が変わってきているのを感じる。
こういうのを、時代がかわってきていると表現するのだろうか。思っていることとちょっと違うのだけれど、他に言葉が浮かばない。
偽物ケーキに隠された芯や台の材料に目を向けて考え始めるように、屠殺場の塀の向こうに隠されている血や叫びにも、目を向ける人がすこしづつ増えてきている。菜食の時代はいつか来るだろうか。



札幌で菜食:ケーキリンク