さかな


魚を食べなくなってから、魚を食べものとしては認識しなくなった。

「一切の魚を食べないんだ(魚ダシも)」と、決めてからしばらくは、それまで食べていたおいしい魚の味に未練がたっぷりあり、近くで誰かが魚料理を食べていたら、我慢するのにちょっとした精神力が必要だった。
母方は海での漁に関係の深い家で、祖母も母も魚料理を得意としていた。三平汁や鰊漬けなど、それら思い出の味が食べられなくなるのは寂しい、という気持ちも菜食初期は持ち合わせていた。


少しずつその未練は薄れ、今は魚を食べることへの執着はほぼゼロ。

逆に、魚を食べたり、殺したり、食べないのに弄んだりする人を見ると、それが野蛮だと感じるようになってしまった。頭と理屈で考えてではなく、自然に浮かぶ感情がそうなる。

これは、犬を食う韓国人に対して日本人が抱く感情や、鯨を食う日本人に対してオーストラリア人が抱く感情に似ているのだと思う。
捕鯨に反対するオーストラリア人に対して日本人が抱く反感をネット上ではよく目にするが、菜食者に対する肉食者の抱く反感、というものも当然にあるだろう。
(便宜上xx人、と書いているけれど、もちろん、すべてのxx人がそうだと思っているわけではない。)



川や海で泳ぐ魚たちは美しい。
魚屋に並ぶのは、人間に殺された魚の死体。もう泳がない・・・


例えば魚屋のトレイに並ぶ銀色に光るサンマを見て、
おいしそうだと思うのか、
もう海では泳げないことに憐れみを感じるのか、


肉食者と菜食者では、世界の見え方が少し違う。




と、ここまで書いてはみたが、もし僕が書いたこれを読む非菜食者がいたとして、その人には僕の言いたいことが伝わらないんじゃないだろうか。
何を馬鹿なことを言っているんだ、神経質だ、植物だって生きているんだ、感謝すれば食べて良いんだ、いきるために食べるんだ、と思われそう。
そこで、肉も魚も平気で食べる人にもわかりやすい例えを考えたい。


肉も魚も卵も乳も食べない僕の目から魚も肉も食べる人を見た時は、
一般的な日本人が以下のサイトを見た時のような感情に近いものが湧き上がっているかもしれないし、そうでないかもしれない。


Tokyo Fuku−blog
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ザイーガ



とはいえ、今のところ、「魚を食べるのはんたーい」と大声をあげる予定は無い。野菜の水着で魚屋の前に立つこともしないと思う。
水産資源の枯渇、底引き網、養殖による環境汚染、水銀、魚を使わなくても十分においしい料理、などを題材に書くことはあるだろう。

魚を食べることが悪いことだとは思っていない。
魚を殺す人と殺さない人がいて、僕は後者でありたいと思っている。



菜食の三平汁