私たちの「身近な希望」としてのベジタリアン

ブログ「自己改善探求史 〜禁欲と鍛錬で快適に生きる〜」http://d.hatena.ne.jp/vegnz/20070611
にて、「Arisanのノート」 http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20070608/p1が紹介されていた。



ベジタリアンというと、そういう伝統とか宗教とか、近代以前の価値観への、あるいは本質への回帰みたいなものを考えがちだが、いま多くの人たちをベジタリアンにさせているものというのは、近現代の、この社会の極端なあり方に原因があるのだと思う。

肉や魚を乱獲し、大量生産し、大量消費し、生命を商品化しという、そうした社会のあり方に対するひとつの反応として、ベジタリアンという生き方が、いわば肉体的に選択されて生じてくる。

その選択は、見ようによっては、たしかにひとつの「病理」に近い。だが、その病理は、この社会のなかでぼくたち「非ベジタリアン」が平然と肉や魚を大量消費しているという、より度し難い病理の、ネガのようなものではないか。

重要なのは、「どちらがより自然か」という問いではなく、「自然」な生や欲望がすでに存在しないという土台のうえに、ベジタリアンという身体的な選択(反応)が出てきているということだと思う。



ベジタリアンという生き方が、崇高なものや「真」であるということではなく、ぼくたち自身も、そういう反応の仕方をすることがありうるのだという解放感のような思い、この社会の仕組みにすっかり欲望を同化させて生きなくても、違う生き方がありうるのだという啓示、そういったことを、そこに感じるのである。

だから、ベジタリアンである他人は、見ようによってはユーモラス(滑稽)であり、また時には痛々しくもあり、病的にさえ見えるが、そしてその前に座って食事をしていると後ろめたいことも事実だが、それでも、その人たちは、どこかぼくたち自身の「身近な希望」なのである。

ベジタリアン自身がなかなか言葉にできずに困っている概念を、非ベジタリアンの視点からうまく表現してくれていると思うのだけれど、他のベジタリアンはどう感じるのだろうか?